空調エンジニア、そのとき(1)

空気調和

「 朝これを・・とはいえ、まださほど・・・」

 一面の海を列車で渡るとベニスの駅に着いた。駅舎を出ると、すぐ運河に出て、この町の主要な交通機関であるボートやランチが客を引き入れている。
下の子が大学に入学し、完全に子離れしたのを機会に、初夏をねらって夫婦で旅程1カ月のヨーロッパを廻る旅行に出た。オスロからコペンハーゲン、ボンと南下しアルプスを抜けイタリアに入ったのだ。ベースをミラノに置き、今日はベニスに来た。
 私たちは水路を使わず歩いて町の中心地をめざした。いくつかの大小の橋を渡り、ほとんど路地裏と見て取れる細いくねくねとした路を方角を頼りに歩いてゆくと、正面にサンピエトロ寺院を抱いたまぶしいばかりに輝く初夏のイタリアの海面が迎えてくれた。
 道端にテーブルを迫り出しているカフェ、その1軒で休憩しようと、、呼びかけたが、横に伴っている人物の髪の色が金髪??.... /

「あなた、、あなた、、時間ですよ、、、」
妻の恭子が階下でどなっている。忙しい年末の朝に立ち還ってしまった。冬の布団は気持ちよく暖かい・・・。
「あなた、、あなた、、7時ですよ、、、」
また呼ばれた。ヒステリーを起こされる前に起きよう。朝の気分は大事にしたい。/

部屋着を羽織り、ダイニングのテーブルに着く。今日の朝食はトーストとベーコンエッグ、サラダに牛乳、コーヒー。
1枚目のトーストにマーガリンをつける。この習慣を守って10年になるが、その作業中に、恭子がプリントシートを持ってきた。
「要確認の通信が2つ入っていますよ。プリントしておきましたから。」
 1つは、協力会社のダクト設備施工会社エアテクノの主任技術者新堀氏からのもの。この会社には、私がこの8月から担当している浦和市文蔵に建設中の埼玉自然史博物館のダクト工事を請け負ってもらっている。内容は、エントランス室のダクトレイアウトが現状では納まらないことが昨日判明したこと。それに対処するため図面変更したこと。変更に当たっては建築構造、電気設備、衛生設備の敷設ルートを確認したこと。変更後、関係各社にダクトレイアウト変更の主旨と内容を連絡したこと。ダクトの加工は施工センターの4番ラインで今日の9時から始まり、明朝、現場搬入、明日吊込み作業で当日完了の予定となっていた。
 株式会社エアテクノはいわゆるダクト屋さんだったが、当社の経営方針を受け、ダクトワーク専門の技術者を持つことが必要になった。この変革は、当社に関連する企業全てについて要求され、多くは生え抜きの技術者を育てるようになった。とはいっても、彼らの教育を自社で行う余裕は無いため、当社の教育カリキュラムを利用しているのが通例である。当社員の技術教育上も、基礎的知識としてダクトワーク、配管ワークの直接体験は欠かせないため、1~5年生の技術系社員は、この間、教育ローテーションとして、協力会社に出向するシステムを採っている。今日報告してきた新堀君も、実は、出向している当社の4年生社員で、来春からは最終カリキュラムの自動制御に入ることが、本社人事部の通達により決定している。
1枚目のトーストを食べ終え、2枚目にかかるが、最近、体重が増加傾向につき、半分に抑える。妻からは、これ以上増えるようだと長年続けてきた朝のパン食をご飯食に替えると宣告されている。
ダイエット!ダイエット!/

2報目は、本店営業部の大塚氏からの連絡で、中央メディア開発株式会社で計画中の研修センター建設に対する営業活動への協力要請であった。
 内容は、同社の計画を1昨日付けの営業情報データベースで知ったこと、情報の種類は公開情報で「建設情報新聞」に1年前に掲載された記事で、再覧枠に入っていたものであること。再覧を指示した本社営業本部情報管理室のコメントによると、特に他社による営業活動の動きは見られていないがそろそろ動く時期であるとのこと。大塚氏が担当する旨を営業情報データベースに打ち込んで宣言したこと。その日、中央メディア開発株式会社に挨拶に出向き、他の情報ルートで、キーマンを加藤氏と絞ったこと。人材情報データベースの「一般」の部で、加藤氏が須崎建設株式会社出身であること。同じく人材情報データベースの「社内」の部で、9年前、恵庭和久氏(私)が須崎建設の仕事を担当し加藤氏と親しかったことを知ったこと。昨日は、大塚氏一人で加藤氏と接触し、本物件の建設に関するある程度の情報は仕入れたこと。その情報を基に当社側の提案をまとめたこと。今日明日中に、加藤氏とのパワーランチ(昼食を利用しての売り込み)を行いたいこと。その際、話を繋ぐために私に同席してほしい。であった。
 ベーコンエッグとサラダを片付けて2杯目のコーヒーを持って、ソファに座りマルチメディアターミナルのTVスイッチを入れる。インデックスが現れ、ニュース、ドラマ、製品情報といった大メニューの中からニュースを選ぶ。画面が切り替わり現時点のニュースのタイトルがメニュー形式で現れる。大きな事件はなく、トピックス欄の建設に合わせると、「日本建築技術R&Dセンター」の竣工のニュースが入っていた。
 この「日本建築技術R&Dセンター」は、ゼネコン10社、サブコン・専門工事業20社が自社の研究機関を廃し、運営資金と構成員を出向する形で運営する、業界団体が設立した、世界が注目する巨大な技術研究所である。建設業では、これまでの利欲をベースにおいた営業法から、客観的な施工消化技術力と建設コストに重点が置かれるようになって、経費節減が要求され、利益に直接結びつきにくい建設業の研究開発に投資しづらい環境になった。しかし、1社だけの撤退は出来ず、また、技術革新に目を背ける訳にはいかないので協同ですすめることになったのである。当社もこの計画に参画しており、技術研究所員のほとんどが出向することになっている。研究内容は、これまでの個々の専門のテーマから、建築、空調、衛生、電気といった専門を渡る建築総合のテーマまで取り組めることから、その成果が期待されている。その成果は、参加企業が共有財産として利用することができ、官公庁からも新技術が利用しやすくなるので、歓迎されている。また、研究者にも、研究成果の利用が自社のみの狭いマーケットから業界全体へと広がることで、好感を持って受けとめられている。
 つぎに、気象情報に切り替え、東京地方の今日一日の天候を確認する。晴れ時々曇り、比較的暖かい1日とのこと。
 TVや電話、ファックス、パソコンといった通信・情報機器は、5年前からマルチメディア機器として一体化し、TVはまた内容ががらりと一新した。視聴者がTVを情報機器としてみるようになり、その情報は有料なのだという認識が定着してきたためである。
 隣の、さらに高機能な業務型ターミナルの電源を入れる。これは日本空調株式会社の本社の各本部や施工技術センターが所有するデータベース・サーバー(情報ネットワークの中央に位置するコンピュータ)、東京本店の施工センターのCADシステム等と公衆回線を介して繋がる当社専用のネットワークシステム用のマルチメディア型のパソコン端末で、技術系社員にはCADと接続できる高解像高性能型が、事務系社員には普及型が、各家庭に支給されている。社員は朝の出勤前と夜帰宅後の1日2回、ターミナルによるコンタクトが義務づけられている。特に、現場担当の主管技師の主婦とは、そのほとんどとパート雇用の契約がされており、移動が頻繁な夫の個人秘書として、会社や現場との連絡や事務処理の代行を務め、現場事務所を持たない小物件現場では自宅が現場事務所の役割をこなす。このシステムは、会社側にとっては、対象を夫とする個人的で勤勉な秘書を安価に確保して緻密な情報伝達が期待できると、社員の妻にとっては、夫の管理を昼間も行うことで収入が得られ、かつ、居所が的確に把握できると、評判が良い。
接続サーバーを選択するメニュー画面が出る。メニュー項目にある東京本店施工センターのネットワーク・サーバーと接続する。スケジュールボックス(コンピュータ内のスケジュール管理用記録場所)の自分のところを開き、今日の日程を見る。9時から午前中、千葉の幕張にある本社の施工技術センターで専門技術研修に入ることになっている。
 午後は、私が担当している、3つのうちのもう1つの現場、晴海に建設中のウェスチンホテルの現場に向かうことになっている。午後、現場に入るのを少し遅らせば、大塚氏の要請をこなせそうなので、大塚氏にOKを出すことにする。大塚氏は遠距離通勤者で既に家を出ているだろうから、本店ネットワークシステムの大塚氏のメイルボックス(コンピュータ内の連絡通信の記録場所)にメッセージを入れ、連絡を待つことにする。
株式会社エアテクノの新堀氏の通信に回答を出さねばならない。接続サーバーを切り替え、東京本店の施工センターのCADシステムと接続する。施工図/物件名:埼玉自然史博物館/ダクト図/エントランス室と順に選択し、対象部分の図面を開く。ヒストリー(コンピュータ内の過去の履歴情報の保管場所)に収納されている変更前のダクトレイアウトと照合し、変更部分を確認する。レイアウト上の問題は確かに無さそうだ。次は、今回の変更で空調機への影響は出ていないかの確認を行う。機器のサブ・ウインドウを開く。現仕様のファン全圧を確認する。ヒストリーで変更前との差を見る。同様に、騒音とダクト面積についても差を確認する。変更前とは、ファン全圧が+5mmAq、対象室の騒音基準で+2デシベル、ダクト面積にして5m2の増であった。この程度なら、設計で見込んでくれた余裕の許容値内にある。ダクトレイアウトの変更がシステムに与える影響はないと判断し、承認することにする。再び、ダクト図に戻し、ヒストリーを開き、[レイアウト変更-変更者:新堀]の横の欄の承認欄に記名、押印の代わりにパスワード(本人確認用文字並び)を打ち込み、CADシステムへの登録を終えた。
 支度をして家を出る。鞄には、施工部技師用の7つ道具が入っている。携帯用デジタル電話。その電話を介し当社専用ネットワークシステムと接続可能な、ノート型よりさらに小型のサブノート型マルチメディアパソコン。施工図課や現場にポンチ絵程度の指示用手書き作図を送るための読込用スキャナと、接続したデータベース等の内容を出力するプリンタが組合わさった携帯型スキャナ・プリンター。および、その入出力用紙として用いる5cm方眼でA4版のスケッチブック。場所を問わず作業ができるように、ホッチキスから消しゴムまで一般的事務に必要な用品を納めたA5版の事務バッグ。諸官庁、銀行、社員の住所などの各種情報と専門技術の要点を納めた技術本部発行の「アチーブメント・ブック」。現場費用や各種経費清算用に、会社が各社員名義で用意した銀行カード。世の先端技術の発達によって総重量は2kgにまで軽量化できているが、まだ重い。
 9時10分前に施工技術センターに着く。

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